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東京地方裁判所 平成7年(ワ)24932号 判決

主文

一  甲事件被告は、甲事件原告らに対し、別紙物件目録記載の不動産について、別紙第一登記目録記載の登記の抹消登記手続をせよ。

二  甲事件原告三名と甲事件被告との間において、甲事件被告と亡甲野花子及び丙川松夫との間の平成二年三月二〇日締結の金銭消費貸借契約に関する亡甲野ハナの連帯保証債務が存在しないことを確認する。

三  乙事件被告は、乙事件原告らに対し、別紙物件目録記載の不動産について、別紙第二登記目録記載の登記の抹消登記手続をせよ。

四  訴訟費用は、両事件被告らの負担とする。

理由

【事実及び理由】

第一  請求

主文と同じ。

第二  事案の概要

甲事件は、訴外丙川松夫及び訴外亡甲野花子の甲事件被告に対する金銭債務につき、連帯保証をし、かつ、その所有不動産に根抵当権を設定したとされる亡甲野ハナの相続人ないし包括受遺者である両事件原告三名において、右に係る連帯保証契約及び根抵当権設定契約が存在しないか又は無効のものであると主張して、甲事件被告に対し、右による根抵当権設定登記の抹消登記手続と右連帯保証に係る債務の不存在確認とを求めているものである。乙事件は、甲事件被告から右根抵当権に関する転根抵当権及び債権質権を取得し、右根抵当権設定登記につき転抵当及び債権質入の各付記登記を経由した者乙事件被告に対し、右各登記の抹消登記手続を求めているものである。なお、甲事件中の根抵当権設定登記抹消登記手続請求は、元甲事件原告であった亡甲野ハナから訴訟承継されたものである。

一  争いのない事実並びに記録及び証拠上明らかな基本的事実

1 甲野ハナ(明治二九年一一月二三日生。平成七年三月一日死亡。以下「ハナ」という。)が所有していた別紙物件目録記載の土地建物(以下「本件土地建物」という。)につき、甲事件被告を根抵当権者、債務者を丙川松夫(以下「丙川」という。)及び甲野花子(以下「花子」という。)とする別紙第一登記目録記載の根抵当権設定登記(以下「本件根抵当権設定登記」といい、同登記に係る根抵当権を「本件根抵当権」といい、その設定に係る契約を「本件根抵当権設定契約」といい、これに係るハナの意思表示を「本件根抵当権設定」という。)が経由され、さらに、乙事件被告を転根抵当権者、甲事件被告を債務者とする別紙第二登記目録記載の一番根抵当権転抵当及び一番根抵当権の債権質入の各付記登記が経由されている。

2 平成二年三月二〇日、甲事件被告を貸主、丙川及び花子を借主とする金三億五〇〇〇万円の金銭消費貸借契約(以下「本件消費貸借契約」という。)が締結され、ハナが同日甲事件被告に対し同契約上の丙川及び花子の債務を連帯保証する旨の意思表示(以下「本件連帯保証」といい、本件根抵当権設定と併せて「本件各意思表示」という。また、本件連帯保証によって成立したとされる保証契約を「本件連帯保証契約」といい、本件根抵当権設定契約と併せて「本件各契約」という。)をした旨の同日付けの金銭消費貸借契約証書が作成されており、甲事件被告は、本件連帯保証は有効にされたものであると主張している。

3 ハナは、平成三年一二月三日東京家庭裁判所において禁治産宣告の審判(以下「本件禁治産宣告」という。)を受け、同月一九日同審判が確定し、山崎宏征弁護士が後見人に就職した。本件禁治産宣告の手続において、当時国立病院医療センター精神科の精神保健指定医であった岸佳子によってハナの精神鑑定がされ、その平成三年一一月二八日付けの鑑定書(以下「本件鑑定書」という。)によれば、ハナは右鑑定当時「中等度の老年痴呆の状態」にあるとされている。

本件禁治産宣告後、ハナは、右後見人を介して、甲事件被告に対し、本件根抵当権設定登記の抹消登記手続を求めて甲事件を提起したが、平成七年三月一日死亡した。ハナの相続人は両事件原告三名(以下「原告ら」といい、個別にはその名をもって表わす。)であって、原告らはハナの相続人ないし包括受遺者としてハナの権利義務一切を相続したものである(ちなみに、ハナは大正五年二月一九日甲野松太郎と婚姻し、長男太郎(大正七年一〇月二七日生)をもうけ、同人は、昭和二四年二月一四日花子と婚姻し、原告一郎及び同二郎の二子をもうけたが、昭和五八年四月五日死亡し、花子は平成四年一二月二一日死亡した。原告春子(昭和七年三月一七日生)は、戸籍上ハナと松太郎との間の長女として出生した旨届出されており、かつ、ハナの包括受遺者である(その旨の遺言公正証書が作成されている。)。)。

二  争点

本件各意思表示の存否又はその効力。

(甲事件被告及び乙事件被告の主張)

1 平成二年三月二〇日、甲事件被告は、借主を丙川及び花子として、三億五〇〇〇万円を、利息年八・九六パーセント、損害金年一八・二五パーセント、返済平成三年一月二一日一括持参払いとする約定で貸し渡し(本件消費貸借契約)、同日ハナは甲事件被告に対し本件連帯保証をし、本件連帯保証契約が成立した。

2 甲事件被告は、本件消費貸借契約上の債務の履行を確保するため、平成二年三月二〇日、ハナとの間で、極度額を五億二五〇〇万円とする本件根抵当権設定契約を締結し、ハナは同日甲事件被告に対し本件根抵当権設定をした。

3 ハナは、本件各意思表示をした当時もその後も、俳句をよく詠んだり(平成二年に「天覧の 馬の三白 高あがき」という俳句(以下「件外俳句」という。)を詠んだ。)、登録印鑑の改印のための代理権授与(以下「件外代理権授与」という。)をしたり、同年二月一九日に遺言公正証書の作成を嘱託したり(乙一一の公正証書(以下「件外公正証書」という。)がある。公証人は当然ハナに意思能力のあることを十分に確認した上で本件公正証書を作成したものである。)、本件根抵当権設定登記後更に本件土地建物に原告一郎のために別の根抵当権(以下「件外根抵当権」という。)を設定したりしており、本件各意思表示当時ハナは正常な判断能力を有していた。

(原告らの主張)

ハナは、平成三年一二月当時老年痴呆によって心神喪失の常況にあり、そのため禁治産宣告を受けたものであるが、本件鑑定書によっても、右状況はその性質上平成元年以前に発症したとされており、平成二年三月の本件各意思表示当時、ハナには事理弁識能力がなかった。件外俳句は戦前に詠んだものであり、件外代理権授与に係る文書は偽造されたものであり、件外公正証書、件外根抵当権の設定はいずれもハナに意思能力がないことに乗じて不正にされたものであって、本件各意思表示当時ハナに意思能力のあったことを示すものではない。

したがって、ハナの本件各意思表示自体存在しなかったものであり、仮に存在したとしても、ハナの意思能力の欠如によって無効というべきであるから、本件各契約は無効である。

第三  当裁判所の判断

一  事案の概要一記載の事実に、《証拠略》を総合すると、次の事実が認められる。

1 花子はハナとその夫甲野松太郎(明治二〇年八月生・昭和三三年三月死亡)の長男である甲野太郎の妻であるが、太郎が昭和五八年四月に死亡し、本来は松太郎及びハナの実子でない原告春子をハナが可愛がっており、ハナ及び原告春子と、花子、原告一郎及び原告二郎との間の折合いが良くなかった(ハナは昭和五一年に太郎、花子、原告一郎を被告として家屋明渡訴訟を提起し、二三回の口頭弁論を重ねた後裁判所から文書による和解勧告があり、ようやく昭和五六年に訴えの取下げにより訴訟が終わるということもあった。同訴訟中の本人尋問においてハナは原告春子がハナの実子でないことを述べている)ことなどから、平成元年ころ、花子は、高齢のハナが松太郎から相続した財産などを全部原告春子に贈与、遺贈、相続等によって取得させて、花子の子供である原告一郎及び原告二郎がハナの遺産を相続することができないようにしてしまうことを非常に憂慮しており(実際、ハナは昭和五八年に、その法定相続人の相続分を原告春子二分の一、原告一郎及び原告二郎各四分の一と指定する旨の公正証書を嘱託作成したことがあった。)、できればハナの財産を全部原告一郎及び原告二郎に相続させたいと強く考えていた。

一方、花子が洋画家であったことから、丙川はその前年の昭和六三年に花子の絵画の販売を仲介したいなどと甘言を弄して花子と知合いになっており、花子は丙川に対し右ハナに関する財産問題を花子側に有利に処理することまで相談するようになった。

右の相談を受けた丙川は、ハナが高齢で相当の資産を有していたことから、花子に協力する形を取りつつ自らが利得しようと企図し、まず、花子と共に松太郎の親友で大阪に居住する丁原を訪問して、丁原の名刺の裏面に丁原と丙川の父が友人であるかのような虚偽の文章を記載してもらい、この名刺を持参してハナを訪問し、右名刺の裏面記載に沿うような作り話をしてハナを喜ばせ、以来頻繁にハナを訪問しハナに取り入った。

その一方で、丙川は、花子においてハナ及び原告春子に対する敵愾心から多少不当な手段を弄してでも前記財産問題を花子側に有利に処理しようという浅薄短慮の考えに陥っていることに便乗して、花子に対し、ハナに自筆で財産全部を原告一郎及び原告二郎に遺贈するという遺言証書を作成してもらうことは不可能なので、ハナの老年性痴呆の症状が進行しつつあったのを利用してハナの自宅において公証人に同内容の遺言公正証書を作成してもらうことを勧め、さらに、右のような公正証書のみではハナの遺産相続に際し原告春子が遺留分減殺請求権を行使する可能性が残っており不十分であるから、ハナが所有する不動産(本件土地建物)を担保として五億円の融資を受け、それを資金として丙川が営利事業をし、それによって多額の利益を得て花子に分配し、原告春子が遺留分減殺請求権を行使することが困難な状況を作ってしまうという、一見花子にも損でないようではあるが、実際には極めて曖昧な共同事業の話を持ち掛け、花子がその意味をよく理解できないでいるまま、右の計画を進めた。

そして、平成二年二月に、丙川が介在し、公証人がハナの自宅に出張した上で、ハナの財産全部を原告一郎及び原告二郎に遺贈し、遺言執行者を丙川と指定する旨のハナの遺言公正証書が実際に作成された(乙一一の件外公正証書)が、その前後すなわち平成元年一二月ころから平成二年二月までの間に、花子から丙川に対し諸経費及び報酬の前払いという趣旨で一〇〇〇万円が交付された。また、ハナの実印は当時松永弁護士が保管しており、それを使用することができなかったため、丙川及び花子は、実印を紛失したことにしてハナに無断で改印手続をすることとし、そのためのハナ名義の丙川宛ての委任書などを偽造してハナの実印登録をし直した上、この登録によるハナの印鑑登録証明書の交付を受けた。加えて丙川は、平成元年一二月ころから、甲事件被告社員の戊田竹夫(以下「戊田」という。)との間において、甲事件被告から融資を受けるという話を進め、その結果、平成二年三月二〇日に本件消費貸借契約が締結されることになった。

2 甲事件被告から利息その他が控除されたことによって、本件消費貸借契約につき丙川が現実に交付を受けた金員は約三億一九八六万円であったが、丙川は花子に対し五〇〇万円ないし一〇〇〇万円程度の金員を交付したのみで、残余は全部丙川が花子から借りた形にして、丙川のマンションの購入(約一億五五〇〇万円)、韓国における不動産事業への投資(六〇〇〇万円ないし七〇〇〇万円)、スカイウエイゴルフ会員権の購入(六〇〇〇万円)、銀行預金(結局、毎週数十万円ずつ払い戻して費消したが、その使途等の詳細は明らかでない。)に充てた。その後丙川は、本件消費貸借契約による貸金をその期限に返済しようと全くせず、二〇〇〇万円程度の利息を支払えば甲事件被告から借り替えることができたにもかかわらず、遁辞を弄してその利息さえ支払わなかった。そして、元来他から巨額の債務を負担していたためか、丙川が右貸金によって購入したマンションについても競売手続が開始されるという状態であって、結局丙川は、花子に対し当初説明していたような利益分配や右貸金の返済などを全くせず、本件消費貸借契約によって花子が得たものは全くないに等しく、丙川に当初から詐欺の故意があったといえるかどうかはともかくとして、少なくとも外形的には、丙川は花子を利用して巨額の金員を手にし、花子には専ら巨額の債務を負わせたのみで、その責任を全く取ろうとしなかったものである。

3 そして、本件消費貸借契約の締結と併行して、平成二年三月二〇日本件各契約が締結されることになったが、その当時ハナの心身の状態は、元来ハナが健常者のため、古くからハナ宅に住み込んでいるお手伝いの訴外甲田夏子(以下「甲田」という。)の介護を受けることによって日常生活上は格別重大な支障があったわけではないものの、高齢によって老年性痴呆がある程度発現進行しており、耳も遠く、ハナの近くで大声で話さないと人の話を聞き取ることができず、また一日に何回も失禁するため外出することは困難な状態であり、他人の債務につき連帯保証をするとか、他人の債務のため不動産に根抵当権を設定するなどというやや込み入った処分行為については、平易な言葉で懇切丁寧に繰り返し説明してようやくその意味が若干分かるかどうか(実際にはほとんど理解できず、そのため自分のしたことについての記憶も全くない状態のようであった。)という程度の事理弁識能力しかなかった。また、ハナは元来俳句を好んで詠むなど教養のある女性であったが、本件各意思表示がされた当時は、その筆記能力も減退し、手が震えて一度にごく僅かな文字しか書けず、ようやく自分の氏名程度は書くことができるという程度で、年賀状なども甲田が代筆していた(なお、乙九の1の件外俳句につき、証人甲田夏子の証言中に(昭和)天皇崩御に際し詠んだかのように述べる部分があるが、その証言自体からしても曖昧な記憶によることが明らかであって、件外俳句の筆記状態及び前掲各証拠からすれば、ハナがそれよりもずっと以前に詠み自書したものを昭和六十年代ないし平成元年ころに葉書に印刷したものであると推認され、ハナが本件各意思表示をした当時に詠んで自書したものであるとは到底認められない。)。

4 右のようなハナに本件各意思表示をさせるに際し、丙川、花子及び甲田は、ハナの健康や事理弁識能力等が右3のように相当衰弱してきていることを十分に認識しながら、司法書士を同道してハナの自宅に赴き、丙川において、右1の経緯によって丙川を亡夫の親友の子供であるかのように騙して取り入っていたハナに対し、本件各契約に係る契約書を提示して、ハナや太郎ないしその子供らの利益のために必要な書面でハナの署名が必要である旨のその場限りの巧みな説明をして、右書面に極めてたどたどしい署名をさせた(乙一の1中の連帯保証人欄中のハナの氏名部分及び乙二中の連帯保証人兼根抵当権設定者欄中のハナの氏名部分)が、その当時ハナにはその氏名すらもしっかりと書く能力はなく、右署名によって元本三億五〇〇〇万円もの巨額な債務につき連帯保証し、自分が居住している本件土地建物に極度額五億二五〇〇万円もの根抵当権を設定することになることを理解する能力なども全くなく、結局、ハナは右各書面の意味を理解することができないまま、主として丙川の誘導に従って署名したものである(それゆえ、ハナは右署名をしたこと自体その後全く記憶していない。)。

そして、右各書面のハナ名下の印影は、ハナが松永弁護士に預けていた本来の実印によるものではなく、丙川及び花子において前記2のとおり勝手にハナの実印として登録し直したものを使用したものである。

二  右一の認定事実によれば、右一の4のハナの各署名は事理弁識能力を欠いた状態にある者がその意味を理解できないままにしたものというべきことが明らかであって、仮にそれによって本件根抵当権設定及び本件連帯保証についての意思表示をしたことになるとしても、意思能力がない状態でされた無効の意思表示というべきである。

右に関し、右署名当時ハナには十分な理解能力があり、本件各契約の意味については丙川、花子、甲田らにおいてそれ以前からハナに十分に説明して理解させており、その上でハナに署名してもらった旨を述べる丙川及び甲田の供述があるが、本件鑑定書によっても、前記各認定事実によっても、到底採用することができない。

また、件外公正証書の作成経緯は前記のとおりであり、件外公正証書が作成されていることは、本件各意思表示についての右認定判断を何ら妨げるものではないというべきであり、また、本件各契約後に件外根抵当権の設定登記手続がされているという被告らの主張事実についても、その当時ハナの事理弁識能力が一層減退していることからして、本件各意思表示の場合以上に右設定登記手続がハナの有効な意思表示によるものとは到底認められないから、本件の結論を左右しないものというべきである。

三  よって、本件根抵当権設定契約及び本件連帯保証契約は無効であるから、その余の点について判断するまでもなく、原告らの被告らに対する本訴請求はいずれも理由がある。

(裁判官 伊藤 剛)

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